2002年、まだ見ぬ「こどものまち」の

ディテールを詰めたのは中高生。

子どもがつくるまち・ミニさくら 佐倉市

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二〇〇〇年のミニミュンヘンに参加した中村桃子の「こんな面白いことに子どもの時に参加したかった。子どもの時に、自分の家の近所になかったことが悔しい!」という思い、この思いを聞いた佐倉の人たちが「見てみたい、やってみたい」となり、佐倉市内の様々な人たちが縦横に協力して開催。しかしそのディテールを作り込んだのは当時の中高生。

中志津中央商店街を会場に春休み期間中の4日間、四〇余りの業種、一〇〇余りの仕事が用意された。職安、銀行、市役所、清掃局、警察など公共の仕事のグループ、おにぎり、ロールサンド、チョコバナナなど人気の食べ物グループ、郵便局、新聞社、放送局、病院などのみんなのための仕事グループ、アクセサリーや裂き織り、折り染めなどの手工芸グループ、砂場やお化け屋敷、シャボン玉などのレジャーランドグループなど、その年その年で少しづつ替わるが、機能別に幾つかのグループに分かれて多様な街が表現される仕掛けとなっている。この骨格は2002年の最初のミニさくらの時に概ね出来上がっていた。当時参考にする「こどものまち」がない中で、「まちが回る」仕掛けを詰めて行けたのは、詰め切れない大人達そっちのけで、当時の中高生たちが楽しさを追求した結果のことだった(私たちがよく話すエピソードに、ミニミュンヘンで週に1度行なわれていた市長選挙をわずか4日間のミニさくらでやる時に、どうするべきかを迷っていた際、子どもたちが「毎日やれば良いじゃん」と行って実行することになった、と言うものがある)。また中高生の発案を当時の大人達がよく受け止め、実行に移せた点で、未知のものに取組んでいる一体感、高揚感があった。

現在は準備期間も小学生が中心となっていることで、当日の雰囲気も、事前準備の様相も少し変わって来ていて、各職業ブースごとのユニフォームや目印を用意して雰囲気を作ったり、直前の準備を子どもたちと3日間掛けて進める「ぷちさくら」や、まち会議の進め方への工夫など、毎年試行錯誤している。子どもが主体の遊びのまちであることを踏まえ、「大人の心得(「見守ること、忍耐すること、指図しないこと、口出ししないこと、楽園天国!」の5か条の頭文字を繋げるとミ・ニ・さ・く・らとなる)」が生まれて来たが、一方で、子どもの主体性を引き出すために、時には大人や専門家からの支援は必要で、その見極めが難しいところ。

会場としてきた商店街は、庇、テント、電気、水道などの設営上のやりやすさがあるうえ、現実のまちと重なることで子どもたちに「まち」がリアルに感じられたり商店街の方との関わりを日常につなげて行ける可能性、さらに地域の方たちに子どもたちの活躍をアピールできる良さがある。しかし会場への入場制限ができないため、子どもについてくる大人への対応を難しくしてしまう面もある。

子どもたち

まち会議という子どもの枠組みが用意されている。二〇〇二年のいちばん最初の時には一〇代スタッフと子どもスタッフ合わせて約十人、二〇〇五年は約三〇人。二〇〇六、二〇〇七では子どもスタッフ約一五〜二〇人の参加があった(これとは別に事前準備の「ぷちさくら」では準備に毎日約五〇〜八〇名が参加している)。まち会議は二〇〇七では小学4〜5年生が中心だったため、ワークショップ形式や内容を絞り込んだ。小学生をリードする高校生の負担が大きく、子どもたちも塾通いや部活で忙しい中、活動の進め方と募集、声かけの方法に工夫するなどした。七年目ということもあり興味の対象が移って来ている状況も踏まえ、これまで一律に市内の全校に配布して来たチラシを、小学生向けと、中高生向けとに分ける必要も感じた。一方で同じ小学生であっても、紙幣のデザインや自分がやりたいお店のことなどより具体的なことに夢中になるなど興味ごとに役割を分ける方法も考えたい。

大人たち

コアメンバーが一〇名弱ほどいて、次いでサポーター会議へ参加するサポーターが他に三〇名ほど。二〇〇七では「子どものまち会議」が一〇月より始まった後、十二月より「大人サポーター会議」を始動したが、意識づけを早めに開始する必要があるように思う。