その日、幼稚園は丸ごと「こどものまち」。

仙台市共催の歴史から広く認知。

秋のこどもの日・こどものまち(宮城県仙台市)

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一九九五年の「仙台市子どもセンター構想(※1)」の下で、子どもが主体の遊び=学びの場としての事業展開が企画され、九七年に事業を企画実施する子ども未来フォーラム実行委員会(委員長大村虔一)が立ち上がる。当初はWS等による遊び場づくりが主体であったが、二〇〇二年にミニ・ミュンヘンを模した「こどものまち」の企画提案が出され、バラバラになりがちな実行委員の共通の事業として継続的に取組む(※2)。

「こどものまち」は、1日だけの、パスポートを持っているこどもだけが入国できる特別なまち。ゲートを入ると「ハッピーラッキー」という綿玉手芸のマスコットづくりやアクセサリーづくりと言った各種の工房、忍者あそびと一体になった「あそび神社」、本当の炭火を使う飲食店「炭火亭」といった個性的なお店が用意されている。他にも、デパート、民芸品屋、それに道場や碁会所のほか、市役所(観光局、ワケル局、管理局など)や銀行、郵便局のほか、こどもたちが自由に作る様々なお店屋さんが並ぶ。それぞれの遊びと仕事が緻密に融合したプログラムは、通貨や町並みを通して互いに関係を持っている。通貨の単位は「フォーラム」で、三〇分で一〇フォーラムが与えられる。1フォーラムはおはじき1個。

より深く楽しんでもらうために

パスポートは、抽選によって限られた子ども達にしか手渡らない(二〇〇二年は倍率一〇倍。現在は二倍程度)。その応募を経て当選者に事前案内=こどものまち入国パスポートを送付し、まちの仕組みや約束事、どんなことができるかなど、十数ページの手帳サイズで見た目は本物仕様の「パスポート」を届け、参加するこどもたちのワクワク感を高めている。参加するこどもにとっては「1日だけ」という制約から、仕事に追われたり、まちの仕組みを楽しみ自分たちで創り上げる工夫になかなか至らないなどの課題もあるが、一日を朝から夕方まで親から離れて自分の好きなよう目いっぱい楽しむことのできる貴重な遊びの場になっている。

準備(体制、期間)

子ども未来フォーラムメンバーの中でも、市行政勤務の阿部、児童館館長の永浜、子ども関連の事業を多彩に行う平山、こま名人で幼稚園理事長の安藤、建築家でこどものまちの全体プロデュースを担当する米倉の五人がコア中のコアメンバー。彼らを中心に毎年、実行委員会を組織。六月頃に広く市民に呼掛けて実行委員を募り、夏休み前にその年の概要を実行委員会で決定、開催場所と期日についても確定。運営ボランティアは約百名(多くは大学や専門学校に要請)を公募。具体的な準備は九月から。ボランティアへの説明会(二回程度)や開催チラシの作成・配布、参加者の公募などの作業が重なりながら進み、前日の準備会、そして当日(秋の一〜二日間)を迎える。また、こどものまちを体験し中学生になった子は、OBとしてスタッフ活動ができる。子どもたちがまちでの遊びに没頭できるよう、大人のスタッフ(七割が学生)は先住民=ボラ族として位置づけられた上で、ちょっとした変装をして黒子になり、こどもの自主性の引出し役に徹する。これは「こどもが主体のまち」として、こどもたちが自分で考え行動することの尊重と支援について確認しあうため。

準備段階からの子どもの参画については、かつて実行委員会の委員として高校生自主事業の高校生メンバーが参画していた時期もあったが、現在はこどものまちのOBとして中学生メンバーが当日のスタッフとなって働いてもらっている程度であり、引き続き課題としている。

今後の課題

仙台市との共催事業として位置づけられ、市内の全小学生を対象としてきた一方で、会場の都合から定員制(過去最大で一五〇名/日)をとらざるを得ず、毎年抽選を行なってきた。なお初めは全小学校にチラシを配布したが、応募の多さに以後は広報先を絞るなどした。二〇〇七年から、実行委員会が独自のNPO団体になり行政協力がなくなったことで、広報や事業推進のあり方が今後変わって行くことが予想される。